毎日発酵生活~3.11あれから10年

3.11 気仙沼 陸前高田 一関 岩手蔵ビール 発酵 北海道 札幌 土方夕暉

震災当時

あれから10年が経ちました。10年前のあの日,私は,まだ教員で,授業中でした。北海道もかなり揺れました。ちょうど子どもたちは,教室と教室からはなれた図書コーナーの二手に分かれて作業をしていました。私は教室にいました。突如激しい揺れがはじまり,教室の子どもたちが机の下にもぐったのを確認し,すぐに揺れている中でよろけながらも図書コーナーの子どもたちのところに向かいました。図書コーナーにいた子どもたちも,自ら危機を察し,テーブルの下にもぐりこんでおり,とりあえず皆無事だったことを確認してホッとしたのを覚えています。下校時刻が迫っていました。全教員が職員室に集められ,今後の対応が告げられました。教員たちが八方に分かれて見守り,いつもの時刻通りに帰すというものでした。いや,集団下校だったかな?ちょっとそのあたりは記憶はあいまいですが,下校時刻はいつも通りです。私は,え?と思ったのを覚えています。学校は,内陸なので津波の心配はありませんでした。でも余震があるかもしれない。家に帰っても親がまだ不在のご家庭もあるだろうに,ひとりぼっちで,余震で何かの下敷きになることだってあるかもしれない。あの時,確かに,私は「まだ帰さないほうがいい」と思ったのを覚えています。確か「え?もう帰すの?いいの?」というようなことは言ったような気がします。でも,強くは反論できませんでした(強く言うべきだったと思いますが,空気にのまれたんですね,きっと。だめな自分です)。でも,自分がもし校長だったら,最高責任者だったら,「しばらく帰さないで様子をみる」という判断をしたと思います。担任は子どもたちを見守って,その他の教職員で保護者に連絡網をまわせばいい話。もちろん帰って来なくてやきもきしている保護者からはクレームがくるでしょうけど,そんなことは,あとで謝ればいいだけ。命にはかえられない。結果は,幸いにも何事もなくてよかったのですが・・・。もしかしたらね,帰さずに学校にいたせいで犠牲が出たってことだってありえるのだから,私の考えが絶対正しいとも言い切れないのですけどね。実際は,結果論でしか言えないことも多々ありますよね。

津波の被害にあった学校では,津波が来るまでの時間で,先生方のそれぞれの考え,対立する意見,決断する校長・・・短い時間の中で,いろいろなやりとりがそこにあったのだと思います。その判断の違いで,全員が助かった学校,犠牲者が出た学校に分かれたのでしょう。学校現場は,とにかく保護者のクレームに萎縮している日々です。対応が間違ってしまった学校というのは,判断のどこかに,津波が来なかったときのことを考えて「クレームが出ないようにどう対処しようかな」などということも頭をよぎっていたのかもしれません。もしかしたらの私の想像の話ですよ。裏の崖をよじ登ればみんな助かったのに・・・という学校もありましたよね。でも,「この崖を登らせて怪我人でもでたら,あとで何言われることか・・・そうなったらいろいろ大変だぞ」とか,考えたのかもしれませんよね(私だって長く教員やってきたのだから,そういった気持ちは,めちゃくちゃわかるの。そういうことで先生方ってすごく疲弊してるし)。犠牲者が出た理由はもちろんそれだけでなく,いろいろあるとは思いますよ。けれどね,絶対言えることは,命に関わることにおいては,命を守ることをどんなことにおいても最優先にしなければならない,命があればなんとかなる。それをこの震災で,まざまざと見せられた気がします。このことだけはけっしてこれからも忘れてはいけないと思います。

被災地のこと,犠牲者のこと,大切な人を失った方のことを思うと,心が痛む毎日でした。私も,現場に行って何かできることはないだろうか?ボランティアに行きたいとも思いました。教員の募集もありました。行きたいと思いました。でも,学校で担任をしている私が行くということは,私の周囲の方々に何かしらの負担やひずみが生じるわけで,それは現実的ではありませんでした。でも,ずっと被災地への思いはありました。

 

東北旅行2019

2019年4月,発酵旅行で東北を車で巡りました。訪れる予定の発酵蔵は太平洋側にはなかったのですが,被災地が今どうなっているのかこの目で確かめたくて,車を走らせました。

岩手県一関市のいわて蔵ビールを見学したあとに,陸前高田市に向かいました。ずーっと山道を走り続けたあと,ふと平地の景色がひらけました。

3.11 陸前高田

無機質な平地

もう日も暮れ,薄暗くなっています。家はまったくありません。ブルドーザーなどがあちこちに置かれています。人もいません。ただただ平地が続きます。しばらくその平地を走り,先ほどから感じていた違和感の意味に気づきました。「あ,ここは,津波に流されたところなんだ」と。来てみてはじめて,それを肌で感じたのです。こういうことかと。もちろん,もう,瓦礫などは取り除かれています。誰もいない,無機質な平地がただただ続いているのです。ここはもう,人は住まない地域と決めたところなのだろうか・・・。

遠まきに「奇跡の一本松」を車窓から見ました。本当は,降りて近くまで行きたかったのですが,もう,暗くて,人気(ひとけ)もまったくなくて,怖くて歩いていけませんでした。

宿は,宮城県気仙沼の「森のコテージ」という,まるでおとぎ話の世界に迷い込んだかのような異空間でした。

3.11 気仙沼 

気仙沼 森のコテージ

ここは,男性のオーナーさんが一人でつくりあげた世界です。

そのオーナーさん,とてもあたたかな優しい方で,いろいろとお話をしてくれました。このかわいらしい家は,すべて,震災のときの仮設住宅だったものだそうです(もちろん,そのときには,こんなかわいらしいお家ではないですよ)。そして,使わなくなって解体されたものを譲り受け,オーナーさんがこの地で一つ一つ組み直して,息を吹き込んだのです。オーナーさんは,震災で大事な人を失ったことも話してくれました。その悲しみに耐えながら,歯を食いしばりながら,人が楽しく集まることができるこの夢の地を作ったのだと感じ,胸がギュッと締め付けられて,何も言葉が出てきませんでした。何を発しても,上っ面な言葉としてしか響かないような気がして怖かったのです。

3.11 気仙沼

気仙沼 森のコテージ

翌朝,「絶対にまた来ます」と約束して,ここを後にしました。

このあとに向かったのは,気仙沼の伝承館です。つい1ヶ月前の3月にオープンしたばかりでした。海のすぐ近くに建てられたこの施設は大震災の記録・記憶を後世に伝える役割を担っています。津波の被害にあった気仙沼向洋高校の校舎がそのまま残っていて,中を見学することができます。

校舎内には,津波で流されてきた様々なものが入り込んでいました。屋上に上がると,当時の津波の様子のパネルがありました。これ↓が当時の屋上から見た景色です。

3.11 気仙沼

気仙沼向洋高校校舎の屋上に避難した方が撮影したもの(パネルを撮影したものなので反射で私の手がうっすらと写っています)

生徒たちは,全員高台へ避難させたあとのことです。一部の教職員が大事なもの(おそらく,生徒の成績に関わるものとか)を守るために残り,最後は屋上に避難したそうです。もう,すぐそこまで水が。どんなに怖かったことでしょうか。屋上から,更にちょっとだけ高く上れるところがあり,そこに机を重ねて這い上がろうとしていた跡が残っていました。「この屋上も駄目かもしれない。できるだけ上に!!」と,必死に生きようとしたのですよね。幸い,屋上まで水は届かず,犠牲者は出なかったそうです。もしだめだったのなら,私は,その場に立っていられなかったと思います。上の写真だと,屋上といっても,実際の水位はわかりにくいですよね。どれくらいの津波の高さだったかというと,この写真↓ならわかりますか?津波で流されたものがぶつかった跡が残っているので分かると思います。4階建ての校舎です。

3.11 気仙沼 陸前高田 一関 岩手蔵ビール 発酵 北海道 札幌 土方夕暉

気仙沼 伝承館にて 2019年4月

 

新しく建てられた伝承館では,被災当時の写真をたくさん見ました。犠牲者の救助や被災地の支援のために,海外の人々がたくさんその国から派遣されて来て下さり,救ってくれたのだということも実感しました。ありがたくて涙が出てきました。当時,海外からの支援の様子ってあまり報道されていなかった気がします。

一番最後に,ビデオ映像を観ました。被災してまもなくの避難場所の体育館での卒業式の様子など・・・もう,苦しくて苦しくて,こらえていても,涙と一緒に「うっ」って声も洩れてしまう。今ね,これを綴っていても,思い出しながらこみ上げてくるものがあります。

ここに足を運ぶということはけっして楽しいことではない。でも,みんな知っておくべきことじゃないかな。日本人みんな身体と心に被災地のこの大変さ,苦しさ,悲しみを刻むべきだと思う。私は忘れない。

3.11 気仙沼

気仙沼 海岸近く(2019)・・・・・何もない。 津波にすべて流されて,瓦礫を取り除き,そして,整地して・・・

 

震災を忘れない・学ぶ

NHKは,夜中にずっと,被災地のことを伝えています。私は,いつもそれを観ています。観ているだけ,知っているだけでも意味はあると思う。

先日は,福島第一原子力発電所での震災直後の中枢部の動きをドラマ形式で伝えていました。私は,関東圏壊滅にまでならなかったのは,なんとか関係者の英知を集めて方策を打ち出して食い止めたからだと思い込んでいました。無知でした。でも違ったのですね。2号機は最悪の状態で,方策を打ち出したものの,うまくいかなかった。そして,もう,東京を含めた関東圏全域が放射能により壊滅状態になるはずだった。万策は尽きたそう。そして,ここがいちばん衝撃的だったのですが,その最悪の状況を食い止めたのは,人間じゃないんですよ。人間の英知じゃないんですよ。なんと偶然ですって。偶然が重なって,たまたまよいほうに転んだんですって。怖すぎる。その偶然がなかったら,今頃どうなっていたんだろう。首都に人がいなくなっていたとしたら,10年後の今の日本はどうなっていたのだろう。考えただけでも恐ろしい。

これ,他の原子力発電所でもまたいつ起きてもおかしくないことでしょ。で,起きてしまったら,もう,人間の手に負えないから,神頼みするしかないってこと。日本の未来は,暗いよね。子どもたちごめん,原発だけでないよね,これからの日本の未来って不安だらけだ。暗い未来に進んでいるのをわかっていて止められない私たち大人って罪だわ。私には,何ができるのだろう。

明日は,金曜ロードショーで「Fukushima50」が放映されます。映画なので,脚色やぼやかし,美談に仕上げているところもあるかもしれません。でも,とりあえず観ようと思います。

 

世嬉の一酒造「いわて蔵ビール」

今日は,犠牲になられた方を想い,いわて蔵ビールで献杯致します。献杯は,日本酒で行われるのが一般的です。でも,今回は,あえて,このクラフトビールで。このビールをつくっている岩手県の世嬉の一酒造さん(もともとは日本酒,現在は,クラフトビールにも力を入れています)は,地震により,自社の蔵も大打撃を受けながらも,社長の佐藤さんや醸造長の後藤さんが率先して陸前高田や気仙沼に救援物資の輸送などをし,その後の復興のためにも尽力してきた酒造会社であります。社長の佐藤さんとはメールでやりとりさせていただいたことがあるのですが,とても優しく気さくで情熱ある方だということが文面からも伝わってきました。そして,クラフトビール醸造長の後藤さんは,私が訪れたときに,クラフトビールの醸造について,とても丁寧に教えてくださった方です。後藤さんには,無理なお願いにも関わらず,私が開催しました講座「知られざる発酵の世界~クラフトビール編」のゲスト講師として,以前,来て頂いたことがあるのですよ。

3.11 気仙沼 陸前高田 一関 岩手蔵ビール 発酵 北海道 札幌 土方夕暉

岩手蔵ビール 醸造長の後藤さんと

ですから,私なりの思い入れのある東北のこのクラフトビールで献杯させていただきます。

3.11 気仙沼 陸前高田 一関 岩手蔵ビール 発酵 北海道 札幌 土方夕暉

いわて蔵ビールさんの「ヴァイツェン」~エールビール(上面発酵ビール)のひとつ。エールビールは,複雑なアロマを感じることができるビールです。一方,日本の大手メーカーの一般的なビールはラガービール(下面発酵)で,すっきりした味わいが特徴です。エールビールのヴァイツェンは,ドイツのビールで,小麦麦芽を使っているのが特徴です(ビールには大麦麦芽を使うのが一般的)。酵母が生み出すフルーティな香りを感じることができました。

10年目の節目を迎えましたが,これが過ぎると,まためっきりと被災地のその後の情報が伝わってこなくなりそうで怖いです。まだまだこれからなのです。私たちは,そのことを忘れてはいけません。

 

最後に

最後に・・・もう一つだけ。

3年ほど前に,チェリストの土田英順さんの東日本大震災復興支援チャリティーコンサートに行きました。土田英順さんは,日本フィルや札幌交響楽団で主席チェロ奏者を歴任していた方で,現在は,復興支援のために音楽を通して力を尽くしている方です。彼は,被災地をまわり,いろいろな声を聞き,そして,それらを被災者でない私たちに伝えてくれています。彼の話で,すごく心に残っているものがあります。母親を亡くした娘さんから聞いた話だそうです。

震災で母親を亡くし,彼女は,このままでは母親が腐ってしまう,それはいけないと思ったそうです。きっと待っていても誰かがこの状況をどうにかしてくれるという望みはなかったのでしょう。彼女は,母親を車に乗せて,山を登り,その山で一人で土を掘り,埋めたと。でも,最後にどうしても母親の顔の部分に土がかけられないまま,その場にしばらくたたずんでいたと・・・。

私は,戦時中でもない今の時代に,こんな悲しいことがあるのかと驚愕でした。たった一人で穴を掘って最愛の母親を埋めなければならないそんな悲しく残酷なことってありますか。どんな気持ちで運転したんだろう。どんな思いで穴を掘ったのだろう,最後はどうやって顔に土をかけてあげられたのだろう,想像しただけで,胸が苦しく痛くなります。彼女だけでない,きっとたくさんの人が,被災していない私たちが想像もつかないような壮絶な思いをしているんです。この悲しみ苦しみ,痛みを,せめて同じ国の私たちが少しずつでも受け止めてあげられたらいいのにと思います。